ある男の記憶。

ここに記してある事は架空の物であり、実在の人物及び団体とは 一切関係ありません。

将来について。

  半年以上もここを放置してしまっていた。家族の問題や自分の就職問題があって自省する時間や余裕がなかった。
  卒業できたならばとある大企業で働くことになった。国家公務員という道も閉じてはいないのだけれど、恐らく企業で働く。当初は丸の内だけれども恐らく出向になりそうな予感がするので何処になるのかは見当もつかない。といっても都内には変わりがないし、来週の成績発表如何によっては秋学期を遊ぶか学ぶかの選択肢も生まれる。
  今回私は一つ経験を得た。それは少なくとも私の家庭において個人の判断はなんら尊重されないという事である。私のような二十半ばの若者が追う夢物語よりも五十を過ぎた親が敷いてくれた軌道を進む事が人生において安定と成功を得られる確率が高い事は事実である。しかし私はそれでも夢を追いかけてみたかった。大学入学時に臆病によって四年間を悶々と過ごす羽目になった轍を踏みたくはなかったし、その事を説明しようともした。
  しかしそんな事はどうでも良いと申しつけられた。私の意思ではなく目の前にあるこの筋道こそが行くべき道であると直言された。私はそれに従う、なぜならば私が夢を諦め付き従う事で私を除いた全ての役者が満足をする事が確実でありそれを期待されている以上迷惑はかけられない。
  恨んでいないと言えば嘘になる。江ノ島からの帰り道、電話で聞いた言葉の一つ一つを忘れる事はない。恨みよりも虚しさが大きくここに居る。私は人生で一度も外の世界へ挑んだ事がない、良きにつけ悪しきにつけ徴の誉れに守られてきた。それには感謝をしているが、だからこそ人生で最初で最後の挑戦をしてみたかった。その為に自力でその機会を得る為に努力をしたし結果として掴み取って証を机にしまってある。しかしそれは意味がなかった。こうなると決まっていたならばせめて三月に尋ねた際、最初からこの道を行けと伝えて欲しかった。なぜ持ち上げてから落とすような行為をするのか。私は理解に苦しんでいる。
  これからの私の人生は今までとそう変わらないと想像する。恐らく転居も何もないだろう。私の挑戦とは一体何だったのだろう。今握りしめている拳と内に在る想いを何処に降り下ろせば良いのだろう。

待っているという事について。

  幸せなことがあった、とてもとても幸せな事でこれを糧に暫くやっていこうと思える。
  私は待つ人間だと自分を思っている、精神的には追いかけるタイプなのだが時間的には待つ事が多い。これに限っては対象が男女先輩後輩問わずとにかく私は待つ事が多い何故ならそれは私の時間に関する価値観から来るものである。
  こんな事を書くと色々な人から謝られたり嫌味だと言われてしまうので先に断わっておくと私は待たされるのが苦ではない、勿論連絡もなしに30分ばかり遅刻されれば不愉快になるが怒りを表明したことはない。まして故意遅れた訳でもなく連絡をくれた上で急いて来て謝罪までしてくれている人に対して怒るなんてあんまりだと私は思う。然しそれとはまるで正反対に自身が遅刻したりするのがどうしても許せない、だから待ち合わせの15分前には必ずその場所で出迎える準備を整える癖がついている。当然いままで寝坊もすれば遅刻もした事が数え切れないほどあるが私はその自分を許さない。
  何故だか私は待つという行為に依っているし酔ってもいる。つい先日然り去年や一昨年しかりで、30分でも3時間でも35度でも0度でも立ち尽くしてる。それが1年前からの約束でも年明け40分前でも時間には間に合わせるのが私の流儀であると同時に病質でもある。それがどんなに相手を心配させ気を遣わせるか理解しているのに。それをまるで勘違いしている、というより勘違いしたフリをしている道化である。
  私は今この瞬間も待っている、誰を待っているかは知っているが来ない事も知っている。家で駅で私は待ち続けている、ずっと何年も待っている。でも来てくれないのだ、もしこのまま誰も来ず私の中にある線を越したとしたら私は待つ事を諦めていったい何処へ向かって行くのだろうか。着いた先に誰もいなかったら?

平成27年を迎えて

  あけましておめでとうございます。今年こそは良い年にしたいです。
  過去2年間は本当に辛く苦しい日々でした、本当に本当に今年こそは良い年にしたいです本当に本当に本当に今年こそは良い年になって欲しい。
  本当に本当に本当に。みなさまも良い1年になりますように。

自認について。

  家で深酒しながら自分は誰なんだろうって考えてると、時々本当に自己を自己と認識できなくなることがある。鏡に向かって自ら自身について問うと狂うと言われているのに近いのかもしれない。
  ここ数週間色々なことがあった、全てよくないことである。もう何年も色々なことに悩んだり憔悴したりしてきたが今度ばかりは文字通り次元が違う。一歩一歩が後戻りできず薄氷の上と寸分違わぬ生活である。寝床も食卓も便所すらも何かをひとつ間違えれば即破滅である。
  「こちらが深淵を覗き込む時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」という言葉がある。いったいいつ好転するのか、どこへ行けば、どの集団が味方なのかそうではないのか。しかしやはりこれが一番の悩みでありずっと頭から離れない。

私は誰なのか?

文章化の難しさについて。

  最近は毎晩この時間まで起きている、そのせいで平均睡眠時間は減少の一途である。
  私は悩みやすく、それを吐露するのが不得手である。またそれと同じく他人様の悩みを聞いてあげたりするのも得意ではない。自分の気持ちを上手に表す語彙を持っていないし...こんな意味不明な文章を書いているのだからそれで充分か。
  1人で寝るときは必ずお酒を飲んでから酔いが覚めない内に歯を磨いたりして寝る。そうして結局iPhoneを見ながら思索を続けているうちに涙が出てきてそのうち意識を失うのが定番になってしまった、これは何故だろう。別にこれといって不安な事があるわけではない、ただ漠然と雲を掴む様な不明瞭さでそれは私の心に巣食っている。結局のところ心の病は治っていないとしか思えない。
  いままで何人かの人にはこの事を伝えようとした、みんな真剣に心から耳を傾け理解してくれようとした。しかし駄目なのだ勿論彼らではなく私自身に問題がある、忘れようとして色々な事をしてみるが当然何一つ解決にはならない。悪い事は一通りやってみたので最近は良い事をしてみている、老人に席を譲ったり外人に道案内をしたりと気負わず身近な見て見ぬそぶりをしてきた事をやってみた。しかし当然何も変化することはなく悲しい夜を迎えるだけである。
  断片的に私を知る人が言う私の放蕩や好色さはそんな軽薄なものではない。私は1人で夜を過ごしたくないのだ、朝もやの中次の夜に怯えて1日を過ごしたくないのだ、だから誰かと一緒に床に就きたい。
  なにが不安なのか、どうして悲しいのか全く分からないまま何年もの時が流れていく。いつか変わると信じていたら社会人になる日が近づいてきている。このままで良いのだろうかこんな状態でやっていけるのだろうか。もし駄目なら
いっその事終わらせてしまいたいという思いが常に在る。誰か助けて。

慶應義塾について。

  これを目にする人の殆どが外部、しかも大学外部だと知っている。それでも敢えてこれを書く、書かねばならない。ただ責任回避として書いておくが全員が全員というわけではない。
  先日会話の中でこういう話題が登った「なぜ外部は塾歌どころか若き血すら歌えないのか」である。これは私達内部生にとって、特段幼稚舎生にとって長年にわたり議論の対象になってきている。そこで少なくない時間を費やし検討を重ね外部の何人かに問うた結果ある程度の結論が導かれた。
  まず前提として入学したての外部が歌えない場合は除く。違う組織に加わったのだからそれに附する文化を知れというのは流石に理不尽である、奇特な人物は入学式の為に予習をして来るかもしれないがその様な人物は願い下げである。
  さて本題であるが1年生の後半以降、慶早戦など一連の行事を経験して以降の塾生が歌えないのはなぜだろうか。若き血を歌えないと言った7人に聞いたところ全員が「必要がないから」と答えてくれた。最初の1人に言われた時は最低な冗談だと思ったが同様の答えを受けるたびに絶望的な思いに至った。彼らは若き血を必要としないのだ。そして彼らはこう言ってのけた「大学は勉強をする場所であって連帯感のようなものは面倒臭い、高校の部活かよ」なるほどそういう思考回路なのかと私は落胆して彼らとの会話を切り上げた。
  社中という言葉や塾生という呼称、そういったかつて慶應義塾を覆ってきた殻と私達が持つ愛塾心によって慶應義塾は150余年に渡って存続してきた。それは福澤先生によって創られ私の曾祖父が、祖父が父が母が叔父が叔母が全ての塾員方によって受け継がれて来た。しかし殻は最早ほとんど形骸化してしまった、愚かで無責任な"自由"によっていつしか学生服は體育會と応援指導部のみの制服かの様な認識がされ、塾帽は絶滅寸前になり慶早戦はサークルの新歓行事の一種に過ぎず三田会をただ単に就職で使えるOB会としてしか認識しない状態である。それでも世間では「慶應義塾は愛"校"心が強い」との評価を受けてきた、それは戦後の愚かな時代であっても心のどこかにはしっかりと塾生たる自負があったように思える、これは加山雄三さんの映画などでつぶさに垣間見ることができた。しかしその心すらも最早失われかけている現状を憂う。
  外部の意見である「大学は勉強をする場所」という意見は一面的には正しさも多少含有している。ただし勉強"だけ"をする場所との誤認に基づいている。勉強をする事はもちろん大切である、ただ福澤先生が慶應義塾の目的で仰っている通り「慶應義塾は単に一所の学塾として自ら甘んずるを得ず(中略)全社会の先導者足らんことを欲するものなり」として学者ではなく先導者たる為に存立している組織なのである。そこを履き違えている者が余りにも多くなにより開き直っている。
  私達内部生、特に幼稚舎生は決して最初から外部を差別したいとは望んでいないしその様な教育も全く受けていない。ただ以下の事は自発的に殆どの者がハッキリと思っている。
  今の慶應義塾を形作っているのは私達である。そこに外部から多くの人達を迎えてより大きく楽しく過ごしたいと私達も思っていた。しかし私達が大学までの12年間ないしは6年又は3年間でも良いがその期間を過ごした慶應義塾の伝統を拒否するのは何故なのだろう。なぜ後から入ってきて受け継がれた灯火を無視し好き放題にするのだろう。塾生ではなく"慶応生"などと吠え、神宮球場の興奮も二郎の味も何も知らずただただ歴史に泥を塗って生きていく厚顔無恥さは受験勉強の賜物なのか。彼らの様な人々を私達は同じ塾生とは思う事ができない、それをしてしまったらならばそれは罪である。ましてや外国人など絶対に受け入れる事が出来るわけがない、一体全体慶應義塾をどうしてこんな風にしてしまったのか申し訳が立たない。
  昨今はグローバル化によってあらゆる場所において伝統が蔑ろにされ権利と自由が幅を利かせている。私の敬愛する作家の表現を一部借りさせて頂くならば、学問尊重のみで、魂は死んでもよいのか。学問以上の価値なくして何の慶應義塾だ。私達はこれからの慶應義塾に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「慶應義塾」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。慶應義塾はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る優秀な私立大学が東京の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私達は口をきく気にもなれなくなっているのである。
  今こそ行き過ぎた自由から逃走を始める時期なのではないだろうか、逃走が闘争へ進化するのに数世代もかからないだろう。
  

眠ることについて。

  眠れない、ただそれだけを。

  ここ何ヶ月か、上手く眠れない。何時間も布団に横になっていると色々な事を考え込んでしまって気づいたら太陽を拝む事もしばしば。バルコニーで煙草を吸って日本酒を二三杯煽ってやっと眠れる。誰かと寝る時は疲れて寝れるからよいけれど、それを除けば日中に忙しかった日でも疲れているのに眠ることが難しい。
  眠れても嫌な夢ばかり見る、なんのメタファーなのか分からないけれど嫌な悲しい夢を見続けている。
  眠りたくない、眠りたい、明日になって欲しくない。そうしてお酒と煙草がどんどん増えている現実がまた嫌なのだ、だから独りでいる布団は嫌い。