ある男の記憶。

ここに記してある事は架空の物であり、実在の人物及び団体とは 一切関係ありません。

慶應義塾について。

  これを目にする人の殆どが外部、しかも大学外部だと知っている。それでも敢えてこれを書く、書かねばならない。ただ責任回避として書いておくが全員が全員というわけではない。
  先日会話の中でこういう話題が登った「なぜ外部は塾歌どころか若き血すら歌えないのか」である。これは私達内部生にとって、特段幼稚舎生にとって長年にわたり議論の対象になってきている。そこで少なくない時間を費やし検討を重ね外部の何人かに問うた結果ある程度の結論が導かれた。
  まず前提として入学したての外部が歌えない場合は除く。違う組織に加わったのだからそれに附する文化を知れというのは流石に理不尽である、奇特な人物は入学式の為に予習をして来るかもしれないがその様な人物は願い下げである。
  さて本題であるが1年生の後半以降、慶早戦など一連の行事を経験して以降の塾生が歌えないのはなぜだろうか。若き血を歌えないと言った7人に聞いたところ全員が「必要がないから」と答えてくれた。最初の1人に言われた時は最低な冗談だと思ったが同様の答えを受けるたびに絶望的な思いに至った。彼らは若き血を必要としないのだ。そして彼らはこう言ってのけた「大学は勉強をする場所であって連帯感のようなものは面倒臭い、高校の部活かよ」なるほどそういう思考回路なのかと私は落胆して彼らとの会話を切り上げた。
  社中という言葉や塾生という呼称、そういったかつて慶應義塾を覆ってきた殻と私達が持つ愛塾心によって慶應義塾は150余年に渡って存続してきた。それは福澤先生によって創られ私の曾祖父が、祖父が父が母が叔父が叔母が全ての塾員方によって受け継がれて来た。しかし殻は最早ほとんど形骸化してしまった、愚かで無責任な"自由"によっていつしか学生服は體育會と応援指導部のみの制服かの様な認識がされ、塾帽は絶滅寸前になり慶早戦はサークルの新歓行事の一種に過ぎず三田会をただ単に就職で使えるOB会としてしか認識しない状態である。それでも世間では「慶應義塾は愛"校"心が強い」との評価を受けてきた、それは戦後の愚かな時代であっても心のどこかにはしっかりと塾生たる自負があったように思える、これは加山雄三さんの映画などでつぶさに垣間見ることができた。しかしその心すらも最早失われかけている現状を憂う。
  外部の意見である「大学は勉強をする場所」という意見は一面的には正しさも多少含有している。ただし勉強"だけ"をする場所との誤認に基づいている。勉強をする事はもちろん大切である、ただ福澤先生が慶應義塾の目的で仰っている通り「慶應義塾は単に一所の学塾として自ら甘んずるを得ず(中略)全社会の先導者足らんことを欲するものなり」として学者ではなく先導者たる為に存立している組織なのである。そこを履き違えている者が余りにも多くなにより開き直っている。
  私達内部生、特に幼稚舎生は決して最初から外部を差別したいとは望んでいないしその様な教育も全く受けていない。ただ以下の事は自発的に殆どの者がハッキリと思っている。
  今の慶應義塾を形作っているのは私達である。そこに外部から多くの人達を迎えてより大きく楽しく過ごしたいと私達も思っていた。しかし私達が大学までの12年間ないしは6年又は3年間でも良いがその期間を過ごした慶應義塾の伝統を拒否するのは何故なのだろう。なぜ後から入ってきて受け継がれた灯火を無視し好き放題にするのだろう。塾生ではなく"慶応生"などと吠え、神宮球場の興奮も二郎の味も何も知らずただただ歴史に泥を塗って生きていく厚顔無恥さは受験勉強の賜物なのか。彼らの様な人々を私達は同じ塾生とは思う事ができない、それをしてしまったらならばそれは罪である。ましてや外国人など絶対に受け入れる事が出来るわけがない、一体全体慶應義塾をどうしてこんな風にしてしまったのか申し訳が立たない。
  昨今はグローバル化によってあらゆる場所において伝統が蔑ろにされ権利と自由が幅を利かせている。私の敬愛する作家の表現を一部借りさせて頂くならば、学問尊重のみで、魂は死んでもよいのか。学問以上の価値なくして何の慶應義塾だ。私達はこれからの慶應義塾に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「慶應義塾」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。慶應義塾はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る優秀な私立大学が東京の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私達は口をきく気にもなれなくなっているのである。
  今こそ行き過ぎた自由から逃走を始める時期なのではないだろうか、逃走が闘争へ進化するのに数世代もかからないだろう。