ある男の記憶。

ここに記してある事は架空の物であり、実在の人物及び団体とは 一切関係ありません。

待っているという事について。

  幸せなことがあった、とてもとても幸せな事でこれを糧に暫くやっていこうと思える。
  私は待つ人間だと自分を思っている、精神的には追いかけるタイプなのだが時間的には待つ事が多い。これに限っては対象が男女先輩後輩問わずとにかく私は待つ事が多い何故ならそれは私の時間に関する価値観から来るものである。
  こんな事を書くと色々な人から謝られたり嫌味だと言われてしまうので先に断わっておくと私は待たされるのが苦ではない、勿論連絡もなしに30分ばかり遅刻されれば不愉快になるが怒りを表明したことはない。まして故意遅れた訳でもなく連絡をくれた上で急いて来て謝罪までしてくれている人に対して怒るなんてあんまりだと私は思う。然しそれとはまるで正反対に自身が遅刻したりするのがどうしても許せない、だから待ち合わせの15分前には必ずその場所で出迎える準備を整える癖がついている。当然いままで寝坊もすれば遅刻もした事が数え切れないほどあるが私はその自分を許さない。
  何故だか私は待つという行為に依っているし酔ってもいる。つい先日然り去年や一昨年しかりで、30分でも3時間でも35度でも0度でも立ち尽くしてる。それが1年前からの約束でも年明け40分前でも時間には間に合わせるのが私の流儀であると同時に病質でもある。それがどんなに相手を心配させ気を遣わせるか理解しているのに。それをまるで勘違いしている、というより勘違いしたフリをしている道化である。
  私は今この瞬間も待っている、誰を待っているかは知っているが来ない事も知っている。家で駅で私は待ち続けている、ずっと何年も待っている。でも来てくれないのだ、もしこのまま誰も来ず私の中にある線を越したとしたら私は待つ事を諦めていったい何処へ向かって行くのだろうか。着いた先に誰もいなかったら?