ある男の記憶。

ここに記してある事は架空の物であり、実在の人物及び団体とは 一切関係ありません。

映画と自己投影について。

  今日「渇き。」という映画を友人と観た。帰り際に雨が降っていたのに傘を渡せなくて申し訳ない。彼女と観る映画はいつもこの類の物だ。
  この映画は元刑事の男が元妻に引き取られその後に行方を眩ませた娘を探し、その過程で失踪の真実に飲み込まれていく様子を描いた物である。機能不全家族やイジメ、覚醒剤と児童買春といった内容を暴力的に描いた作品であり家族や恋人と観に行くのはオススメできない、その点彼女と行ったのは良かった。
  登場人物に橋下愛が演ずる森下という女性がいる。その森下は重要な立ち位置にいるのだがそれがもつ台詞の一つ一つに私は何か他人事の様に思えなかった。また中盤頃に重大な局面として若者達がパーティーを行うがそれもどこか過去の自分と重なり自己投影をせざるを得なかった。
  私はここ数年まで殆ど邦画を観ることがなかった。殆どがハリウッドの娯楽映画であり有名作品の上澄みを掬った程度であり日本映画はそれこそゴジラジブリ程度であった。しかし近年幾つか鑑賞の機会を得て理解できたのは洋画と違い文化的下地を共有する邦画では陰鬱で救いのない登場人物達に自分を重ね合わせようとする醜い自分自身が現れる事である。もちろん現実は映画ではないし私は一般的な日本人より僅かだけ特殊だがそれでもただの人間である。しかしその少しの差を強烈な感覚として捉え続けてきた私は時としてそういった認識を選択してしまう。
  失踪した娘である加奈子は当初「優等生」や「誰とでも仲が良い」と評されているが最終的には「クソ」「悪魔」「人の心が分からない」とこき下ろされるに至っている。
  これは色々な人達が過去から現在まで私に浴びせたのと何一つ変わらない言葉の羅列だ、私がまさに日々受けている現実の言葉そのものなんだと帰宅した今になって気づいた。あの感覚は怒りだ。