ある男の記憶。

ここに記してある事は架空の物であり、実在の人物及び団体とは 一切関係ありません。

あるカレー屋について。

  私は最寄りの駅へ向かう時に必ず商店街を通り抜ける。オシャレな駅としてそこそこ名の通った駅だけれども商店街はどの店も昭和気質というか暖かい。私も馴染みの店を何軒も持たせてもらっている。
  その中にあってはかなり新参である6年前に開店したカレー屋があった。移動販売を主としてやってきたが苦節10年以上遂に店を構える事ができたということで創業者の御主人と若奥様が二人で切り盛りし3年ほど前には2号店を出店するなど上昇気流に乗っていた。持ち帰り専門だったが安価な割りに量も多く味も確かでありタイ風の春巻きなどもそこそこ充実しており、常に20分は待つ人気店であった。
  わたしはそこの御主人と懇意にしていて進学祝いを頂戴したり御子息の誕生祝いを差し上げたりして贔屓にしていた。奥様は美人で御主人と15も離れていて私と年齢も近くたまにコーヒーを飲んだりする程度の仲であった。けれども数日前、それは終わった。
  その日私は煙草をふかしながらその軒先を通った、まだ開店していなかったがいつもガラス戸越しに会釈をするのがここ5年半ほどの日課だった。そこには一枚の張り紙「突然ではありますが閉店致します。申し訳ありません」私は火を落とした。確かに思い返せば前兆がなかったとは言えない、それは割愛するが店を畳む程とは私には思えず理解に苦しむ。住所は互いに知っているので落ち着いた頃に手紙を書こうと思う。
  私は二点思うところがある。一点目は私に閉店を伝えてくれなかったショックだ。遡る事いく日かすれば私は店を訪れ世間話をして軽食を持ち帰った。その時確かに少し元気がなかったものの全くそぶりを見せる事はなかった。せめて一言あれば今こんなにも虚しい思いをしなくて済んだかもしれない。それとも、もしそれからの短期間で店を畳む事態になったとすれば余程の事でありこれは全く別のショックと不安が過る。以上が直接的にこの事態で思った一点目である。
  二点目はこの事を起点に思った事である。私は非常に保守的な人間である、それはどんな面においても新しきを築くよりは古きを守り伝える側に重点を置くことを信条としている。さて私には馴染みの店が東京に十数件ある、これはよく使うレストランという意味ではなく店主と懇意にしさせてもらったり親の代から交流があったりと何かと面倒をみてもらったりしている店である。そうした店の店主方達は確実に高齢化している、中には90を越えられた方もいらっしゃり率直に言えば決して長くはない。たかだか数年懇意にした店が消えるだけでこの虚無感ならば50年100年御世話になったお店が消える虚無感はいかほどなのだろう。またたかだか飲食店にここまで入れ込んでいるならば、果たして家族と別れた時自分はどうなるのだろう。
  そんな事を考えながら伊勢丹の記念パーティーでシャンパンを傾ける夜であった。
  

この夏について。

  今日は友人の買い物に付き合った。いつも忙しい合間を縫って食事をしたり買い物をしたのだけれど肝心の目的地は定休日だった。ただ彼女は靴も買ったのだけれどもその時見せてくれた笑顔がまるで向日葵のように輝いていて此方まで破顔してしまった。そんな秋の足音を感じた9月頭に夏を振り返りたい。
  この夏はよく言えば大人しく大学生らしく、悪く言えばケチくさく楽しんだ。海外には出なかったし特段大きな箱を借りた記憶もない。山に海に向日葵にディズニー花火温泉とほんとうに慎ましく学生らしい夏休みを謳歌した。また予備自衛官として国防の義務も果たす事ができた、総じて充実した期間だった。
   ただ実質最後の夏休みが幕を迎えようとしている今になって、ふと思い悩む事もある。学生生活のなかで与えられる6.3.3.4という年数、曾祖父が産み出した数字を母も私も延長してばかりだが実質みんなと過ごせる最後の夏であった。そしてみんなとは偶に遊んだりはしたとしても二度と同じ夏を過ごすことはない。この夏はもう二度と無いのだ。
  もう半月ほどで秋が訪れれば学校が始まり様々な物事か随所から姿を現す。そしてあと2ヶ月で区切りの日がやって来る、その日その瞬間その場所で私はそこにいるだろうしいなければならないとも思う。ただ案山子としての私がそこには墓標の如く滑稽な藁人形の様な姿で。僅かな抵抗としての落涙と共に。
  

許す事について。

  丑三つ時である。この時間になると少し涼しくなる時節になったので庭に出て一服。
  さて、わたしは過去を許せない。過去に起こったほんの些細な過ちを許して流す事が苦手なのだ、そうして母が許せぬ父が許せぬ誰が彼がそして何よりも自分が許せぬと積もり積もって生きてきた。
  このまま我慢を重ねて多くの怒りを封じ込めて生きていく自信はある。そのはけ口くらいはなんとか身につけてある、しかしそうしたままで相手との相互理解を欠如したまま生きていくのは正しいのだろうか。
 明日は母の手術日である。許したいのは母ではなく母を許せない自分を許したい。お母さんごめんなさい「頑張って」が言えなくて。

映画と自己投影について。

  今日「渇き。」という映画を友人と観た。帰り際に雨が降っていたのに傘を渡せなくて申し訳ない。彼女と観る映画はいつもこの類の物だ。
  この映画は元刑事の男が元妻に引き取られその後に行方を眩ませた娘を探し、その過程で失踪の真実に飲み込まれていく様子を描いた物である。機能不全家族やイジメ、覚醒剤と児童買春といった内容を暴力的に描いた作品であり家族や恋人と観に行くのはオススメできない、その点彼女と行ったのは良かった。
  登場人物に橋下愛が演ずる森下という女性がいる。その森下は重要な立ち位置にいるのだがそれがもつ台詞の一つ一つに私は何か他人事の様に思えなかった。また中盤頃に重大な局面として若者達がパーティーを行うがそれもどこか過去の自分と重なり自己投影をせざるを得なかった。
  私はここ数年まで殆ど邦画を観ることがなかった。殆どがハリウッドの娯楽映画であり有名作品の上澄みを掬った程度であり日本映画はそれこそゴジラジブリ程度であった。しかし近年幾つか鑑賞の機会を得て理解できたのは洋画と違い文化的下地を共有する邦画では陰鬱で救いのない登場人物達に自分を重ね合わせようとする醜い自分自身が現れる事である。もちろん現実は映画ではないし私は一般的な日本人より僅かだけ特殊だがそれでもただの人間である。しかしその少しの差を強烈な感覚として捉え続けてきた私は時としてそういった認識を選択してしまう。
  失踪した娘である加奈子は当初「優等生」や「誰とでも仲が良い」と評されているが最終的には「クソ」「悪魔」「人の心が分からない」とこき下ろされるに至っている。
  これは色々な人達が過去から現在まで私に浴びせたのと何一つ変わらない言葉の羅列だ、私がまさに日々受けている現実の言葉そのものなんだと帰宅した今になって気づいた。あの感覚は怒りだ。
  

ある夏に知った花について。

  川端康成はこう記したそうです「別れる男に花の名を一つ教えよう。花は毎年必ず咲くのだから」
  大昔にとある女性Rと交際し別れた。その時別れ際彼女は私の目をしっかりと見つめて言い放った「私、黒いダリアの花が好きなの。ブラックダリアが大好き」いま思えば川端の言を知っていたのか、それとも彼女なりの恋愛技巧なのか。とにかく私はその日以来黒いダリアを目にする度あの恋が瞼の中を駆け抜ける。
  ダリアの花言葉は、当然複数あるのだが有名なのは「不安定」である。確かに彼女は不安定であった当時は使われなかった言葉だがメンヘラだったのかもしれない。いつも孤独で同性にも異性にも友情を持てず図書室か隅の木蔭で天を仰いでいた、制服を着崩すでも正すでもなく青春の印が長い黒髪を濡らしシャツを透き通らせていた夏。向日葵とセミ達の声、江ノ島と花火にほんの少しだけ大人の真似事。その夏はとても健気で淡い殆ど乳白色に近い青空色をしていた。
  今となっては心を蝕む忌まわしい悪鬼や羅刹の如き記憶に成り代わって私を絞め殺しに迫ってくる一部となってしまったのだけれど。

6月について。

  久しぶりにこれを書いている、別に思うところが無かった訳ではないけれど色々重大行事が多く続いたので。
  まずは早慶戦だと思う、ふざけて言っているけれど「慶早戦」という言い方は嫌いだ。幼稚舎で早慶戦と教えている以上慶應としても早慶戦で良いと思う。半端な思いで慶應を扱うのはやめて欲しい。まず土曜日に勝った時私は外野のメイン台下辺りにいた。某3チアと抱き合って喜んだが彼女の頭越しにこれから伝拍を振る緊張を帯びた彼を見た。この日は予定があったこともあり、すぐに神宮を去った。
  二日目は内野にいた、途中では星野と住友と北村と一緒に観たりもしていた。北村とは始めて喋ったのだけれど案の定すぐに仲良くなった。そして勝った時私は車椅子地区の辺りにいた、その瞬間自分の中にある心の箍が外れてしまった。平易な言い方をすれば理性が飛んでしまったとでも表現するべきなのか一目もはばからず号泣してしまった。上段にいた2.3年チア達ともみくちゃなって喜んだのだけれど泣きすぎて「山岸さんヤバいですってwww」なんて言われてちょっぴり恥ずかしい。この間も「山岸さんめっちゃ泣いてましたよねw」と言われる始末である。
  その後のパレードと祝賀会については特段なにかがあった訳ではない、ただ同日同時刻に幼稚舎連合大同窓会が行われていたので天元寺歩道橋の上でみなが待っていてくれたのは嬉しかった。途中で小山さんに突撃されたり中上と山岸と大騒ぎしたり浅野のアナルを掘ったり笠原の財布を探したりと久々の再開を楽しむ事も出来た。
  至極当然のことであるが、やはり勝つということは良い。楽勝常勝のみを狙い格下相手に自己満足を繰り返すのではなく永遠の好敵手と切磋琢磨し最高の舞台で正々堂々闘い勝つ。こんな素晴らしい事があるか、いやないだろう。今季は色々な問題や事象が起こった性で不本意な面などがあったかもしれないがまた久々に爽やかな涙を流すことができた。

長くなったので、続きは次回。

いつか自殺することについて。

  雨が強く降り出した。
私は自殺しない、少なくとも今のところは。ただ自殺を選択肢の一つとしてはっきりと認識したのでその事を記録しておこうと思いこれを入力している。
  私は三島由紀夫が好きだ、有島武郎の文章に好感を覚える、芥川龍之介を尊崇の念を持って捉えている。そして彼等に共通するのは自らに引導を渡したことである。彼等と私には、これは即ち全国民にも適合するけれども全員が各々悩みを持ち全てが異なる。しかし同じ日本人の男として僅かでも近似する要素があると信ずる。
  数年前わたしの友人が自殺をした。その時期わたしも精神衰弱に陥りまさに死を選ぼうと刃を手にしていた。しかしその時はかつて記したKによって助けて貰った。あの時死んではいけないと始めて言われた、思えば私の育った環境を形作る人々は美しい自殺を程度の差はあれ美徳として貴ぶ面々である。
  わたしは再び思い悩んでいる。ずっと、ずっと私は自らとその周囲を形作る世界について悩んでいる。長い夜を涙で濡らし深い雨を夜でもたらした、暗闇の中ただひたすら思索を繰り返した。しかし結論は出ず推論と試行を繰り返すのみである、それによって蓄積される心的疲労は決して私にとっては軽いもので無い。
  私が自殺をしたとして、みんなはどう感ずるだろうか。恐らく殆ど感じる事なく(とうとうやったか)といった感じで葬式を済ませ記憶の大河へ流れ去るだろう。だがそれでよいのか、生命尊重のみで魂が死んでいてもよいのか。
  私は考えに考えた、悩みに悩み試行に試行を重ね私という男が持つ能力を引き出せる限り活かして幸せを掴もうと努力をした。これは嘘偽りのない真実である、しかし結果は失敗続きである。もう私は努力を続ける気力体力共に残されていない。
  まだ実行するつもりはない、ただ全ては整えてある。親族と特に懇意の友人には各々遺書を認めてある、作法も全て吟味してある。
  まだ実行はしない、したくない。しかしもし事が起こったとしてもどうか憤るのではなく、あの男は遂に呪縛から解放されたのだと思って頂ければ幸いである。